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そのルーツ
全日本板金工業組合連合会青年部〔全板連青年部〕のルーツは、昭和39年3月岩手県で開催された第16回全国板金業者大会までさかのぼる。当時の全国大会は3日間連続で開かれており、初日は大会運営の役員会、2日目は本体会、そして3日目は各都道府県の代表による合同会議が開かれた。この3日間、すなわち昭和39年3月11日の岩手県花巻温泉の紅葉館における合同会議の別室で、「青年部有志集会」が開催された。
この集会は、すでに発足していた岩手地区の組合青年部(米内弘部長)の呼びかけによるものであり、約30名の参集者によって「板金組合青年部結成の可否」が論議された。合同会議からかけつけた当時の米内一郎全国板金工業会(全板)理事長は、「板金業界発展の鍵は青年諸君の肩にかかっており、組織の強化の土台も青年と婦人の協力にまつところである。青年諸君の奮起を期待し、この会合を全国板金工業会青年部設立発起人会として積極果敢に出発されたい。」と激励した。米内全板理事長は、31歳のとき岩手県板金工業協同組合の創立に参画して同組合の初代理事長に選任された経験をもとに、若者の組織への参加を提唱しつづけていた。しかし、実際には、全板連青年部は、米内全板理事長により結成への激励があった昭和39年の全国大会から数えて10年以上も経過した後での発足となった。
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組合青年部連合の動き
さて、組合青年部は、岩手県につづいて香川県、高知県などで誕生し、昭和46年2月に至って東北6県の組合青年部が結束して東北板金工業組合協議会青年部が設立され、青年部活動は単独の形態から連合の形態へと移行してきた。この動きに呼応するかたちで、昭和46年4月13日京都市に全国各地8組合から13名の青年が集まった。
ここでは全国規模による青年部組織の結成について十分な検討ができずじまいだったものの、翌日の4月14日京都市岡崎の京都会館で開催された第23会全国板金業者大会で、代表の米内弘氏(岩手県板金工業組合副理事長)は、緊急動議のかたちで、全板連青年部の結成を認め、またこれに協力してほしいと訴えた。
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母体組織の対応
同年8月15日に開かれた全日本板金工業組合連合会〔全板連〕の組織委員会はこの要望に応える結論をまとめ、10月8日東京の板金会館において準備会がもたれた。
ここには、全板連から笠松保組織委員長(福井)以下5名の組織委員、青年代表は岩手・福島・東京・千葉・石川・香川の6地区が出席した。この日には全板連青年部の規約案まで上程されたが、青年部員の資格問題で会議が暗礁に乗り上げ、青年部の全国組織化の動きは、またしても待機期間に入ってしまうことになった。
昭和48年5月には、全板連の組織委員長が、笠松保氏から長沢喜美蔵氏(千葉)にバトンタッチされ、同副委員長には30歳代の増子健一氏(栃木)と米内弘氏(岩手)が就任し、全国の各地区にむかって組合青年部の結成をさらに強力に呼びかけた。
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めでたく発足
昭和50年5月には、中野峯吉氏(東京)が全板連副理事長に返り咲いて組織委員長に就任し、いよいよ全板連青年部の発足にむけ、部員資格、規約、運営費などについての詰めの作業に入った。そして昭和50年9月19日ついに全板連青年部が東京の板金会館でめでたく発足し、業界後継者の全国組織としての活動を開始することになった。
こうして全板連青年部は誕生したのであったが、そこには、この誕生のために苦労をいとわず熱い情熱を注ぎ、しかしこの記録には名前が出てこない数多い先輩たちがいたことも忘れてはなるまい。さらにまた、永い伝統のうえに立って全国組織を任意団体から法人団体に移行させ、その代表者に米内一郎氏(岩手)・山口音吉氏(愛知)・栗原勇治氏(福島)をあおぎながら板金会館建設など歴史に残る大事業を成し遂げてきた母体の歩みと軌を一にして、全板連青年部の誕生は、業界に脈々と引き継がれてきた夢の、そのひとつの開花であり結実であったことも銘記すべきであろう。
さいごに全板連青年部発足直前に青年部問題をとりあげた全板連の主な会議をひろうと、つぎのとおりである。